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徳川家康と武田信玄の戦い!どうなる家康

どうする家康!今川氏真の最後!死んだ場所、お墓はどこ?

どうする家康!今川氏真の最後!死んだ場所、お墓はどこ?

3月26日午後8時から放送のNHK大河ドラマ「どうする家康」12回「氏真」では武田信玄(阿部寛)から駿府を攻め込まれ、家臣にも見限られた氏真(溝端淳平)は、駿河の今川館を捨て徳川領に近い掛川城に落ち延びた。妻の早川殿の糸(志田未来)からは実家である神奈川県小田原市の北条に身を寄せるよう勧められ家康はその手助けをする。それを知った信玄は怒ってしまい、徳川家康と武田信玄の戦いが始まるのでしょうか!

 

 

 

信玄の駿府侵攻(前回放送)

信玄の駿河侵攻

信玄の駿河侵攻

永禄11年(1568年)12月6日に甲駿同盟の信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した。2月12日、薩埵峠で武田軍を迎撃するため氏真も興津の清見寺に出陣したましたが瀬名信輝や葛山氏元、朝比奈政貞、三浦義鏡など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し駿府も占領されました。(11回放送分)

 

 

氏真と早川殿のその後

氏真と早川殿のその後

氏真と早川殿のその後

氏真は朝比奈泰朝の居城の掛川城へ逃れた。しかし遠江にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻しその大半が制圧されるていたため12月27日には徳川軍によって掛川城を包囲されてしまいます。しかし泰朝を初めとした家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦となったそうです。

 

氏真再び駿河の国主

家康は氏真との和睦を模索し永禄12年(1569年)5月17日、氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に氏真・家康・氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立したそうですが、この盟約は結果的に履行されることはなく、この掛川城の開城で戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)とされています

今川氏真 - Wikipedia

 

小田原市早川に移住

掛川城の開城後、氏真は妻の早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入ったのち小田原に移り、小田原の早川(神奈川県小田原市南町3丁目報身寺付近)に屋敷を与えられたそうです。この頃、今川義元の13回忌が氏真夫妻によって小田原郊外の久翁寺で執り行われた記録があります。

 

その後浜松興津清見寺へ

1572年に氏真は興津清見寺に文書を下すなど若干の動きを見せていて天正元年(1573年)には伊勢大湊の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことが確認されているそうです

 

その後一時消息不明

天正11年(1583年)7月に近衛前久が浜松を訪れ家康が饗応した際に氏真も陪席していたと記録されていますが、この後しばらくの消息は不明となります。天正19年(1591年)9月に山科言経の日記「言経卿記」に氏真は姿を現すと記され、この頃までには京都に移り住んだとみられています

 

京都に移り住む

文禄4年(1595年)の「言経卿記」には言経が氏真と共に石川家成を訪問するなどこの時期にも徳川家と何らかの繋がりがあったとみられ京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたとみられています。記録では慶長17年(1612年)正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後のようです

 

最後は江戸に移住

慶長17年(1612年)4月に氏真は、郷里の駿府で家康と面会して家康は氏真に対して品川に屋敷を与え、氏真はそのまま子や孫のいる江戸に移住したそうです。慶長18年(1613年)に長年連れ添った早川殿と死別、その翌年の慶長19年(1615年)12月28日に江戸で死去されたそうです。享年77で葬儀は氏真の弟の一月長得が江戸市谷の萬昌院で行い、同寺に葬られたそうです。

 

 

 

 

 

 

氏真と糸のその後を巡る 

氏真の墓は早川殿の墓と共に、今川家知行地である武蔵国多摩郡井草村(現在の東京都杉並区今川二丁目)にある宝珠山観泉寺に移されたそうです。

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