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柳家小三治さん死去!死因は?お通夜、告別式、お葬式、お別れ会の日程と場所

柳家小三治さん死去!死因は?お通夜、告別式、お葬式、お別れ会の日程と場所

柳家小三治さん死去!死因は?お通夜、告別式、お葬式、お別れ会の日程と場所

10月7日午後7時半頃、落語家の柳家小三治さんが自宅2階の自室で倒れているのを妻の和世さんが発見し救急車で都内の病院に運ばれたが、同日午後8時に死亡が確認されました。死因はなんだったのでしょうか?お通夜、告別式、お葬式、お別れ会の日程と場所はどこでしょうか?

 

 

 

マネジャーの倉田美紀さんによると、前日の6日も掃除をしに来た弟子らと談笑するなど元気で、16日の栃木での落語会を楽しみにしていたようです。7日も普段通り夕食と入浴を済ませた後に倒れたとみられます。夕食とり入浴後に自室で急死したとみられ妻の和世さんが発見「本人も全く死ぬつもりはなかったと思います」と話しています

 

 

 

人間国宝の落語家・柳家小三治(やなぎや・こさんじ、本名・郡山剛蔵=こおりやま・たけぞう)さんが7日に心不全のため都内の自宅で亡くなったことが10日、分かった。81歳。故人の遺志でこの日、近親者と直弟子ら約20人で密葬を済ませた。喪主は長男の郡山尋嗣(こおりやま・ひろつぐ)氏。お別れ会の予定はないという。小三治さんは5代目・柳家小さんさんに入門。早くから頭角を現し、柳派の正統派として話芸を極めた。昭和、平成、令和を駆け抜けた名人が静かに人生の幕を下ろした。

 

 

小三治さんは長年リウマチや糖尿病などを患い、17年には頸椎(けいつい)を手術。その後仕事をセーブしていたが、腎機能障害などによる入院治療を終えて今年5月に高座復帰してからは体調も回復。来年まで仕事が入っており、倉田さんは「本人も全く死ぬつもりはなかったと思います」と話した。今月2日、東京・府中の森芸術劇場「柳家一門会」での「猫の皿」が最後の高座となった。

 

小三治さんは生前から「死んだ時の悲しみは、それぞれが心の中でそっと思ってくれればいい」と話しており、10日に東京・落合斎場で親族、直弟子ら約20人で密葬を済ませた。人間国宝認定時に落語協会からもらった着物に、師匠の小さんさんから譲り受けた帯を締めて、天国へ旅立った。本名の一文字「剛」、芸などに優れたとして「優」を入れた「昇道院釋剛優(しょうどういんしゃくごうゆう)」が法名となった。四十九日法要後に東京・四谷の法雲寺に納骨される予定。

 

 

 

 

小三治さんは、教員だった父親の反対を押し切って高校卒業後の59年に入門。17人抜きで真打ちに昇進し、師匠も名乗った「小三治」を襲名した。春風亭柳朝さん、古今亭志ん朝さん、立川談志さん、5代目・三遊亭円楽さんの「四天王」より少し下の世代だが、天才肌で柳派の滑稽噺(ばなし)を受け継ぐ正統派として肩を並べるようになり、落語通だけでなく、初心者からも人気を集めた。本編に入る前の「まくら」はとぼけた味わいで徐々に時間が長くなるも、逆に評判となり、「まくら」をまとめた著書が出版されるまでになった。

 

 

2010年からは落語協会の会長を2期4年務め、年功序列となっていた真打ち昇進の基準を変更。春風亭一之輔、古今亭文菊らを香盤(落語家の序列)を超えて昇進させ、落語界の発展に一石を投じた。14年に師匠の小さんさん、上方の桂米朝さんに続く落語界3人目の人間国宝に選ばれ、至芸を披露。最近は、弟子に手を引かれ高座に上がるなどしていたが、座布団の上では衰えを見せなかった。文字通り生涯現役として、最後まで名人芸を貫いた。

 

 

◆柳家 小三治(やなぎや・こさんじ)1939年12月17日、東京都新宿区生まれ。都立青山高校卒業後、59年3月に5代目・柳家小さんさんに入門。前座名「小たけ」で初高座。63年に二ツ目に昇進し「さん治」と改名。69年に17人抜きで真打ち昇進。10代目・柳家小三治を襲名。10年6月から14年6月まで落語協会会長。2005年に紫綬褒章、14年に旭日小綬章受章、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。家族は妻と1男2女。次女は文学座の女優・郡山冬果。

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